日記(活動報告)

2024-04-24 09:47:00

安城市 花の生命力を感じました

今朝は雨が降り、どんより暗く風もそこそこ吹いていました。新1年生は体に比べてランドセルが大きく、風にふらつかないかと心配です。
空っぽになった新池ちびっ子広場の大きな花壇。中をのぞいてみると、花と思われる芽が育っているのを見つけました。昨年の種が花壇に落ち、土を搬出したあとも運よく残ったのでしょう。この生命力の強さには、さすがに感動しました。
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2024-04-23 13:41:00

安城市 今朝のふれあい朝市

今朝のふれあい朝市は、野菜の出品が少な目でしたが、見事な新たまねぎとスナップエンドウ、切り干し大根がありました。
ここのところ、朝市の前にまとまった雨が降り、野菜の出品にも影響が出ていますが、スタッフのお母さま方は「少しずつ在庫を調整しながら何とか出すよ」と、前向きな様子で安心しました。
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2024-04-22 22:01:00

安城市 こういった郵便ポストが地元にあってもいいですね

安城市 こういった郵便ポストが地元にあってもいいですね。
北海道北見市のJR北見駅、正面口近くに設置されています。
撮影日は2023年8月29日。北見市役所への行政視察の際に撮影。
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2024-04-22 09:05:00

安城市 石川喜平翁頌徳祭に出席しました

21日午後より、降雨の中で石川喜平翁頌徳祭が執り行われました。高棚町では毎年、春祭りの午後からの神社式典を終えたのち、神社に隣接する石川喜平公園の石川喜平翁頌徳碑の前で式典を行っています。また、式典後は明治用水から農水を引いた池へ、明治用水土地改良区の岩井副理事長をはじめ、町内の明治用水・農業関係者の手により金魚の放流を行いました。
石川喜平は文政5年(1822年)に、用水開削を目指す都築弥厚の懇願を了承し、弟子の石川浅右衛門らとともに、「安城ヶ原」と呼ばれた「ため池」に頼るやせた台地の測量に挑みました。文政10年(1827年)秋には5年をかけた測量を終えて測量図が完成しましたが、天保6年(1835年)には都築弥厚が用水の完成を見ることなく病没し、文久2年(1862年)には、喜平も75歳で死去しました。しかし、この時の測量図が、その後の岡本兵松や伊豫田与八郎らに受け継がれ、明治13年(1880年)の明治用水通水につながりました。2年前には開削測量開始200年の節目を迎えました。
明治用水完成後の農業の発展は目ざましく、やがて生産物は米作、養鶏、養蚕や果樹と多方面に渡り、多角形農業と呼ばれ普及していきました。こうしてこの地は「日本デンマーク」と呼ばれるに至りました。都築弥厚らの陰に隠れがちで目立たないですが、和算(わさん=江戸時代に発展した数学)家で天文学者の石川喜平の功績は非常に大きく、郷土の誇る偉人です。
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2024-04-21 20:20:00

安城市 榎前町「せせらぎ・れんげまつり」にお邪魔しました

本日午前10時頃、隣町となる榎前町の「せせらぎ・れんげまつり」にお邪魔しました。春の伝統行事となっています。
以前より、このお祭りにお邪魔したいと思っていたのですが、ちょうど私が町内会長時代は、町の神社の春祭りと同一日であったり、昨年は選挙週間であったので実現しませんでした。
私が到着すると、早速、ご挨拶させていただく機会を得ました。私は、長らく町内会長を務められた加藤前町内会長へのお礼と、「れんげは茎が根元から分岐して束になって成長し、どんどん広がる性質を持つことから、新しく就任された岡田新町内会長のもとで、町内の皆さんが手を取り合って結束して、その輪を広げて行って下さることを願います」と、私の挨拶の締めとさせていただきました。
多くの方から温かいお声掛けをいただき、しばらく話し込むことも。ペットボトルロケット飛ばし大会や、米粉パン、野菜、小物の販売も行われ、大変なにぎわいとなったお祭りでした。
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